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第20回 夕学(せきがく)の会 9月27日(水

2006年9月27日(水)午後6時30分より 「第20回 夕学の会」 が開催されました。
 グルメ杵屋会長 椋本彦之氏より特別講演をしていただきました

 
特別講演   グルメ杵屋 会長 椋本彦之氏      
 私は、昭和二桁で生まれました。昭和10年です。11月24日になりますと71歳になります。家業は米屋でした。母親が厳しい人で毎日店の前に居ては、「人の振り見て我が振りなおせ」「こつこつこつこつ積み重ね」「兄弟仲良くします」など、学校から帰って来たときに大きな声で言わないと家に入れてもらえませんでした。この教えがそれからの人生に大いに役立ったと思っています。

 高校に行くとき、住吉高校に行こうと思っていましたが、阿倍野高女と住吉高校が合併する時に、先輩から旧制阿倍野高女の阿倍野高校の女性がエエンヤデと聞き、行くことにしました。住吉高校で受験を受けたのですが、阿倍野高校に行きました。昭和29年に卒業するとき、どこへ行くか?迷いました。これからは飛行機産業が良いと思ったのですが、航空工学は東大・京大にしかありませんでした。京大は通らないと思いあきらめていたのですが、昭和29年に大阪府立大学に航空工学科が出来ました。府大に行こうと思いました。ものすごい競争率で、受験したが駄目でした。二度目もOUT 三度目もOUT。これが人生の中で一番嫌な思い出で目の前が真っ暗になりました。発表の日に家で親父に会ったときに「もう一回受ける」と言いました、「もう一回受けるゆうたら、あかんかったんか」と言われました。

 「米屋を手伝えよ」と言われて兄が米屋をやっていたので、兄弟で仕事をすることは揉めると思い、断りました。兄弟で仕事をしているところはみんな揉めているのが現実です。「ちがうんや、別のところで自分でやってみい」という事やった。それやったらという事で米屋をやることにしました。「よその振りみて」と思って米屋をやったがよそは一人か二人でやっていました。どんどん改革しようと思って、人を使うことにして三人でやっていった。商売が面白いと三ヶ月後に思いました。

 昭和34年か35年に 三和銀行に行っていた先輩から「おい、椋!アメリカに行かへんか?」と誘いがありました。「アメリカでのスーパーの勉強会の人がたらへん」という理由でした。一緒に行ったのが ダイエーの中内さん ジャスコの岡田さん でアメリカに行って色々と見ました。大きいスーパーで400-500坪ありチェーン展開していました。お金もないしアカンと思っていたのですが、パン屋がたくさん有り、マクドナルドもチェーン展開していました。中内さんに「こんなん面白いで、スーパーでけへんねんやったら、外食のチェーン展開を勉強せえよ」といわれました。あくる年も一緒に行きました。マクドナルド本社にも行って勉強しました。食堂業は日本では家業でしたが、アメリカではチェーン展開しているところがなんぼでもありました。

 はじめ、家業やからチェーン展開はあかんと思っていました。それが、大きな間違いでした。日本ではうどんかそばが面白いと思って親父に言ったら「うどん・そばは夫婦でやるもんや」と言われました。しかし、うどん屋をやろうと思って、一番美味しいところを見て周り、長野県に視察に行きそばを見て 四国に行って讃岐うどん屋を見て 凄いと思ってまず、うどん屋をやろうと思いました。

 チェーン展開することが目的で「マニュアルを教えてくれ」といったら「そんなんできへん、あんたが何年か修行して、家業としてやれ」と言われました。マニュアル化のために 週に一回、一泊で三年間通ってようやく教えてもらいました。マニュアル化したのは私が初めてやと思います。

 しょっちゅう会っていた、ニチイの西端さんやダイエーの中内さんと会って、マニュアルを見せて相談したところ、中内さんから「それはええぞ おまえやれ」と言われました。「奈良の国鉄駅の近くに店に出すから、うどん屋出せよ」といわれましたが、「大阪の方がええですわ」といって怒られました。「チェーン展開を考えてんねんやったら、あちこち、どこにでも出せ」といわれ、それもそうやと思い、奈良に一号店を出させて貰いました。ニチイにもどんどん出させてもらいましたが、中内さんに反対される事はありませんでした。スーパーをチェーン展開する方はすばらしく、自分の店の他に出すなとは言われませんでした。すばらしい方です。いい勉強になりました。
西端さんも 中内さんも鬼籍にはいられました。中内さんは昨年9月19日に死去されました。 中内さんの一周忌に、ジャスコの岡田さん、ヨーカドーの伊藤さんとお会いして、「おまえ、がんばってるな」といわれました。

 1985年に大阪で「食博覧会」をやろうということになり、ORAという組合を作りました。大阪南港でやろうという事になりましたが、当然反対意見もありました。会長の大和実業の岡田さんが「赤字になる」と反対していました。私は「食博覧会」はするべきだと考え、当時の副会長5人のうち二人は反対でしたが、三人は賛成でした。サンドイッチのグルメの菅野社長とがんこの社長と三人で5000万だそうという事になりました。是非やろうと取りまとめ、岡田会長に訴えたところ理解してくれて 5000万の倍だすと言っていただき、できる事になりました。一億円が用意できました。

 1985年第一回の「食博覧会」を開催する事ができました。20万人でトントンでしたが、36万人来て貰いプラスになりました。その時サンドウィッチの会社の菅野社長が「よかった」と言って「一緒にやろう」といってもらいました。合併しようという話が持ち上がりました。考え方が非常に近かったからです。次の9月にサンドウィッチとうどん屋が合併し、みんな驚きました。平成元年に上場する事が出来ました。

 アメリカで勉強してきた事から、上場することの意味を考えていました。株主総会はどういう事かと勉強しました。日本では株主総会はシャンシャン総会でしたが、アメリカは違いました。三社見に行き、株主を大事にする姿勢に驚きました。
最初の株主総会は日本で初めての「開かれた総会」であったと思います。新聞社が来て大変でした。それに反対し、証券会社が止めてある人物を紹介してくれましたが、警察の友達に聞くと「大物総会屋」でした。その総会屋が来たので、一番前に座ってもらった何も言わず一時間半で閉会しました。後の食事会には来られませんでした。私にとってはいい勉強になりました。その人は「してはいけない」と思ったのでしょう。それからも総会は 開かれた総会にしています。今は大阪府立体育館でやっています。中学生 高校生 大学生にも総会に来てもらっていて、中学生は非常に燃えています。社会の勉強をさせる事はすばらしい事です。大学生も来て貰えるのは大事な事かと思っています。

 平成3年8月28日に初芝高等学校が倒産寸前と堺市の議員に相談され、どうにかして欲しいといわれました。株で赤字が60億以上、借金は120億 負債は94億有りました。いろいろな人に聞いてみました。産経新聞の経済部長に聞いたところ「学校は面白い。お前ならできる。よく考えて」と激励されました。三和銀行副頭取の山本さんに相談したら「お前ならできるかも。やってやれよ」「教育は大事や」と言われました。「バックアップしたるからやれ」お父さんが教育大学(師範学校)の学長だったからです。「俺は親父に『銀行行くより人を育てろ 先生になれ』と言われた。お前はどんどん改革していくから、学校も改革していけよ」と激励されたので、翌日承諾しました。

 引き受けたが大変やなと思いました。一生懸命、大改革をやろうと思いました。先生の給料を下げずに改革をしようと思いました。「よその振り見て我が振り直せ」で、よその私学60数校を見て廻りました。その中で、学校理事長のすばらしい人にお会いしました。一週間に一回お会いしました。その方は他の理事長と違い「高校だけではアカン 中学校を作っていくことも大事やで。中学は勉強をさせ、知恵を出させていく事が一番大事。高校生は大学に行かせることが大事 社会を見せることが大切」と言われました。毎週通い二時間三時間話を聞きました。大改革のエネルギーになりました。

 学校は組合がものすごく強い。私立も公立もそうです。同級生の校長からいろいろな話を聞きました。本音の話です。「組合」が圧力でした。私が改革をするというと「大私協」が大阪府下の組合がオルグをかけて交渉することになりました。「理事長出て来い!」「僕出るよ」と交渉に出ました。他校ではあまり理事長は出ないようです。圧力を掛けてきました。年に20回やったでしょう。100人の組合員が来て、「妥協せよ」と怒鳴り倒してきた。「話を聞いて良い事とやったら採用する 決めるのやったら理事会で決める」といいました。そして「いうてる事エエ事無いわ」と言ったら、大きな声で怒鳴る。「声大きいなあ」と言ったら、机を叩かれ壊れました。圧力を掛けるのが組合でした。
ゆっくり話したらええやんと言ったら、俺は明日仕事や。俺もや。オルグは食事をしないで来るので、10時半には帰ります お前らが良い事言うてくれたらええねんからと言っています。今も組合は5人います。58歳が二人59歳が二人60歳が一人 若い先生に組合で勉強したらええねんといっても誰も入らなくなってしまいました。

 大阪市長の關淳一が「政策委員」になってくれと頼まれました。「なにも偉いこと無いのに」と断ったのですが、明日も会議です。月に2-3回会議があります。どんどん改革をしていこうと言う事です。私も勉強やと思ってやっています。 
 学校も増やしています。中学三校。小学校も増やしている。小学校4クラス定員でやっています。北野田の桃山学院の跡に作っていて、すばらしい大阪府でも一、二番になっていると思います。先生は頭が良いだけでは駄目で、子供たちを燃やすこと。小学校では親と先生が連携して子どもの心を燃やしていく事が大事です。先生が燃えると、子どもたちが燃えているのが分かります。これからも、先生を燃やし、子どもの心を掴んで,子どもたちを燃やしていき、すばらしい子を育てていきます。


椋本副理事長の講演の後、懇親会が開催されました。
 米:(株)ヒョウベイ   漬物:梅味屋   練物:阿藻珍味   貝柱:北海道漁連   お酒:山村倉庫
(順不同・敬称略)にご協力戴き、楽しい時を過ごしました。ありがとうございます。

             
      
       
  木桶倶楽部活動報告       
大阪スローフード協会の活動をとおして、会員有志により「木桶倶楽部」が2005年6月より創設されました。
以下のような活動内容を目指してスタートしました。
1.木桶仕込による食品醸造を生産から消費までを一貫してプロデユースする。
2.匠による大木桶の製造から始め、スローフードを実践する各地の食品製造者を募り木桶仕込による食品醸造を依頼する。生産された伝統醸造食品を木桶倶楽部がスローフードに賛同する販売者の協力を得て、スローフーダーに届ける。
3.信頼の置ける生産者が安心の製造過程を公開しながら手間隙かけて安全で奥深い伝統食品を生産し、それを木桶倶楽部が全過程を追いかけ広くスローフーダーたちに公開し、そして最終消費までをプロデユースする。
C大木桶製造者、木桶仕込による醸造生産者、販売者、消費者すべてのスローフーダーのネットワークを構築する。

活動状況
日本酒 京都、羽田酒造さんとのコラボレーション
      木桶仕込み・吟醸酒「スロー三昧 木桶倶楽部」
      720ml 角びんフロスト加工
      原材料 五百万米使用  
      辛口
      05、.夏、企画開始
      06、1月 ウッドワークさんから木桶搬入(1500kl)
         2月より仕込み開始 
         5月発売
納入先 高島屋大阪店、イカリスーパー苦楽園、カドヤ食品
          カネキ酒販、大倉実業、三越高松、伊勢丹他
          (交渉中含む)
      現在販売数約300本、完売を目指してプロモート中
京都宮津、飯尾酢醸造さんとのコラボレーション
      05、秋 ウッドワークさんから木桶搬入
      06、12月より製造開始
現在熟成中ですが、やり直しも含め検討中
ひしお 奈良、ニシキ醤油
      06、春 企画開始
      シープラス株式会社、赤穂化成株式会社を得て、ひらめ醤油の製造開始
      10月完成予定
味噌醤油 三重・四日市、伊勢蔵
      06、夏 企画開始
      木桶納入見積もり中
味噌 福井・越前、マルカワみそ
      06、秋 企画開始

 

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